2014年1月1日水曜日

差別について 〜続チャイニーズと言う野次を考察する〜

何故 チャイニーズと言う野次を考察したかったかというと

理論的に分析する事で

言われた時の不快感や不条理感、怒りを

沈める事が出来るのではないかと 考えたからです。

そして それは世界に住む日本人が関わる可能性のある

出来事だから。

さらに 自分ではなくて 子どもがそういう出来事に遭遇したら

親として何が言えるか

考えてみたかったから。


かそるらさんがご自身のブログに差別というテーマで書いてくれているものがあるので

引用させてもらいます。


*タイトルをクリックするとリンク先に移動できます。



ハエンを歩く


村と言うのは 共同体だから 全体にやんわりと 包み込まれている。
街とは 基本的に成り立ちが違う。
基本的に 混在している。

今日 久々に街を 県庁所在地 ハエンを てくてくと歩いて
 村とは まったく違う世界なのだとしみじみ思いました。

知らない道を 歩いていくと だんだんと 貧しい地域にたどり着いた。 村にも 基本的には 貧富の差はあるけれど それが特に目に見えて そして そこに行くと空気まで変わるということはない。

だから 急に家がみすぼらしくなって そのうち 住民のほとんどがジプシーになったとき 正直 足がすくんだ。
怖い と 思った。
村にいては 普通にお付き合いしているのに
ここでは 異形なのだ。

異形
異質
異世界
異邦人
異物
異界

それは私にとっての彼らであり
彼らにとっての私でもある。

この恐怖の感情は 理性のずっと外にあって
本能的に自分を守るための 保守的な意識だ。

それが 差別の根源にあるものなんだと

都市にある 理性をこえた非倫理 そんな感じのもの。

いろんな人達が ごちゃごちゃと 適当に 混ざっている世界が
実は居心地がいいのだと 思いました。

(ここで引用終わり)



やっぱり 個人じゃなくなると 脅威になるのかしら。

ひとり、または一家族として いれば すごく優しくされても

集団となると 回りの目つきが変わって来ますよね。

中国の人って 世界中に集団で移動して

そこに馴染まずコミュニティを作る。

それは イスラム系の人然り

イスラエル系の人然り


それを受け入れる側の 集団でいる異質な物に思わず感じてしまう恐怖は 

人間の自己防衛本能。

理性では如何んともできない。

それでも かそるらさんが感じた 無力感に共感しきりです。


.... で、子どもに何て言おう。

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